朝露の名残のある草を踏みしめる足音は地に吸収され、彼自身ですら自分があまりに綺麗に自然に溶け込んでいることに驚いていた。そこには彼一人しかいなかったが、仮に誰かが近くを通ったとしても彼の存在には気付かないだろう。霜の溶けた土の上を歩くときには極軽い重みを伝えるやわらかい音がした。人々から離れて、誰にも気付かれないと確信を得ると、彼はその土を踏むことを楽しんだ。
丸みを帯びた真白い靴の先が少しずつ汚れたがそれはかまわない。人の群れに戻り、屋敷に帰れば替えはいくらでもある。

無心で歩き続ければ左手に細い帯のような小川が見えた。彼は流れる水の動きを目で追った。目を離せばその小川は消えてなくなってしまいそうだった。それはそれほどに細かったし、目を離せばなくなってしまいそうな儚さがあった。淀みのない細流は綺麗だったし、そのせせらぎは心地よかったけれど、全体としてどこか人工的で、お粗末だったのだ。周りの木々や青臭い伸びきった草に圧倒されて微かに存在するそれは、誰かがここいらの見栄えのために作ったものの、つくったことすらすっかり忘れられてしまったようだった。それでも確かに透明な水が細々と流れて、木々の間から差し込む日光を絶えず形を変えて反射させるそれは彼の視線を数秒間独占した。
か細い水流のたどり着く先はまさか雄大な海ではない。彼は庭園につくられた小さな溜まりを思い出した。



その脇を上流に向かって僕は辿っていったんだ。特に刺激的ではなかったが、当時はおもしろかったんだろう。それにきっと、道に迷うことを恐れていた。



彼は冒険家にでもなった気分だった。ここは未知の領域。進めば進むほど森は深まり、見たことのない欲物が、生物が待ち受けているに違いない。そしてそれらを発見しても彼は誰にも言わない。自分の内臓の一部として、秘密に取り込むのだ。

自分の足音も気にしなくなり、彼は大股で英雄のように歩いた。過ぎ去った場所はもはや彼の支配下にある。さぁ、どこからでも来い。



結局、僕がそれほど勇敢で居られたのは、そこが絶対に安全であるという確信がどこかにあったからだ。確かに広大な土地ではあったけれど、貴族のお屋敷の庭なんて今再び歩けば何もかもがあの頃と同じか、同じでなくともほとんどが似通っていて、そこではあの頃の僕が今の僕に成長したような、生き物としての自由な発育が感じられないだろう。僕が未知の領域だと思っていたところももちろん誰かが定期的に足を踏み入れ、人の手で管理できるように手を加えていたはずだ。



そんなことだから、少し上流に歩いたところで先客を見つけたときには彼はひどくがっかりした。彼の冒険は、人跡未踏の土地への勇敢な冒険ではなくなってしまったからだ。
だが、落胆すると同時に新たな興味が生まれた。そこに居た人間は彼とほとんど同じくらいの年齢だった。見たことのない少年だった。
こんなところになぜ人が?
この土地の所有者の息子である自分ですら今日初めて足を踏み入れたのだ。人がいるなんて考えられない。
もしかしたら、彼はこの森の精なのではないか?



そう思ったのは、彼が余りに綺麗な髪の色をしていて、透き通った肌を持っていて、柔らかそうな洋服を着ていたからなんだ。繰り返すようだけど、結局ここは森なんかじゃなくて、庭園の一角に過ぎなかったわけだけれど。証拠に、あの後、来た道を引き返すのにそう時間はかからなかった。今なら20分足らずで行き来できると思う。

とにかく、そこで出会った彼を森の精だ、と考えることで僕は彼に対してよい方向に興味を持つことに成功した。



彼は森の精に話しかけることにした。恐る恐る近づけば、彼の気配に気付いて森の精が先に顔を上げた。目が合った。小川に向かって座り込んでいた妖精は、彼を見上げる形になった。
妖精は品定めをするように目を細めて彼を見ると、そこには何も見えなかったかのように再び目線を流れる水に戻した。
彼は彼を森の精に見立てるのを辞めた。


「何かおもしろいものでもあるの」

彼が言った。

「別に」

綺麗な男の子が言った。

「ここで何してるの」

彼は一層綺麗な男の子に近づいた。すぐ隣まで来て、同じように小川を眺めてみた。綺麗だ、と思った。

「何って、暇つぶし。でもここにいてもあまり面白くはなかった。ごめんね」

「なぜ謝るの」

「君はここの家の子だろ。だから」

「うん。別にいいよ」

「本でもあればよかったんだけど。まさかそんな準備万端で抜け出すわけにもいかなかったから。君の庭が特別つまらないわけじゃない。どこも同じだ」

「読書には最適の場所だよ。自然と言っても何も危険はない。動くものは自分の影くらいだしね。ねぇ、僕を知ってたの?さっき会ったかな?」

「会ったよ。と言っても君が両親に連れられて挨拶回りしている様を遠目で見ただけだけど。私も君も、こんなところにいるべきではないけど……特に君の家が主催だろ。大丈夫なの?」

「うちだから、僕は大丈夫だよ。でも君も大丈夫だよ。僕らは子供だもん。君、上着は?」

「子供……ね。上着は捨てた」

「えっほんと?」

「枝に引っかかって、ほつれてしまった。だから捨てた」

「ふーん」

彼は綺麗な男の子の隣に腰を下ろした。間近で見ると彼の精巧な顔のつくりは本当に妖精のようだったが、ツンとした唇や、つまらなさそうな視線は彼の知っている人間のものだった。
その表情はよく見たことがあった。それは昼下がりの怠惰な時間、家庭教師の呪文のような言葉が頭を素通りする中、常に変わらず窓に映る彼自分の眼差しであったことに気がついた。


「お茶会なんて、つまらないよね。あ、でもお菓子は持ってきたんだ。いる?」

彼は上着のポケットから紙に包まれたクッキーやチョコレートを差し出した。ポケットから出すとクッキーのカスがぽろぽろとこぼれた。男の子は一瞬怪訝な顔つきをしたが、彼の手から一枚クッキーを受け取り、丁寧に「いただくよ」と言って口に放った。


「君は、何歳?」

「15。君は?」

「僕は13。同じくらいだね」

「なんだ、もっと下かと思った」

「僕も君はもっと年下かと思った」

男の子は眉を歪めた。

「僕、ここに来たの初めてなんだ」

「へぇ。自分の家なのに?」

「うん。でも、もう来てしまった」

「は?」

「折角冒険気分だったのに、君が居るし、もう次からは冒険じゃない」

「あっそう。残念だったね」
男の子は短く息を吐き、川の上流を眺めた。彼もその視線を追ったが、その間にある男の子の柔らかそうなシャツと、それに被さる金の髪を眺めている方が楽しいことに気がついた。


「君はもう15なんだろ?将来とか、考えてるの?」

「別に。なるようになるさ」

「僕はね、なんとかって称号をもらったりするえらい貴族になるんだ。貴族なんだけど平民と仲が良くて、晩年は彼らのために貴族と戦って死ぬんだ。それで、僕の死後には銅像が立てられる」

「……君、変わってるな。いかにも貴族らしいけど」

「そう?なんで?」

「そういうところが。……傲慢だよ」

「でもこうやって想像するのは楽しくない?」

「さぁ。そんなこと思いつきもしないし。大体にして、私は君と違って戻ったら小言を言われるに違いないんだ。言い訳を考えなきゃ」

「大丈夫だって。僕と話してたって言えば。どっかに行っちゃった上着は言い訳つかないけどさ。ねぇ、何を話す?」

「うるさいな。煩わしいお喋りから抜け出してきたというのに、なぜ君の空想話に付き合わなきゃならない」

「だって暇潰しって言ったじゃない」

「あぁ、わかったわかった。勝手に喋ってろよ」

「ねぇ、君はどこから来たの」

「……」


彼の問いかけに、男の子は前を見たまま悪質に眉根を寄せた。口を開いたら負け、とでも思っているのか唇を軽く噛んで、綺麗な横顔をさらした。
彼も会話を諦めた。



言葉の節々に、僕を馬鹿にする言葉がちりばめられていたが、僕は大して気に留めなかった。彼は15で僕は13だったけど、それも僕にとってはたいした問題ではなかった。一方、彼にとってはそうでもなかったようだ。どこかで僕より優位に立とうとしていた。あの頃の僕は既にそれを敏感に感じ取っていたのだから、その時点で僕のほうが彼を見下していたのだ。

綺麗な髪、整った顔、投げ出された長い手足。クリーム色のシャツに薄く透ける肌の色。
僕は彼の姿を今でも鮮明に覚えている。その洗練された姿に反して、彼はひどく子供っぽかった。僕にはそう見えた。





「さて、と。もう行こうかな」

「行くの?」

「あぁ。言っただろ。暇つぶしに来ただけだ」

「またきなよ」

「来ないって。今日はたまたま」

「ここは面白くないかもしれないけど、僕と話すのは面白かったでしょう」

「……君、やっぱり変」

「君がそういうなら。君の中では僕はそのように形容されるってだけだよ」

「よくわかんないな」


綺麗な男の子はすっと立ち上がった。隣に並んで座っているときには気がつかなかったが、意外にも男の子は背が高かった。細くてすらっとしていて、綺麗な透き通る髪は日の光を吸収してますます輝いていた。



彼も立ち上がった。薄いブルーの瞳を近くに見た。ガラス玉みたいだ、と彼は思った。


「君、名前は?」
	
「……フレデリック」

「僕は、ロックウェル。じゃぁフレデリックって呼んでいい」

「呼べば。また会うことがあればね」






彼との再会はそれから何年かたってからだった。貴族の若様二人の思いがけぬ再会が、船の上なんて一体誰が想像できる?それも海賊船。
僕はあの頃の僕ではなかったが、彼はあの頃のままだった。できれば僕もあの頃のままでいたかったが、年月がそうはさせてくれなかった。
僕は彼との再会を喜んだ。なぜだかしっかり覚えていたその名で呼んだら、彼はひどく不思議な顔をした。彼の方では、僕のことを全く覚えていなかったんだ。

彼があのときのことを忘れていたのは少しショックだったけど、僕も変わってしまったのだし、また一からやり直すのも悪くないと思って、僕はあのときのことを胸に秘めたままにしておいた。何かの弾みで思い出してくれるかもしれないし、彼自身で思い出してもらわないと意味がないのだ。僕が言って思い出したところで、あのときのことは単に過去の遺物として遠くから眺められるに過ぎないからだ。

「あぁ、あのときの。ひさしぶりだな。まさかこんなところで会うなんて思わなかったよ。それで、どう?元気にしてる?」
こんな具合だ。

僕がどう変わったかといったら、あの頃よりも更にひねくれたってとこだ。でも、僕が彼に対して傲慢な態度を取ったり嫌味を言ったりするのは(それは僕に対する彼も同じだったけど)、あの頃の僕を思い出してほしかったからかもしれない。こんなムカつくやつ、どっかで会ったことがあるぞ。眉をひそめて、品定めして、ほら、そうして思い出すかもしれないだろう?それに、僕は彼のあの表情が好きなんだ。

それまでこれは僕の秘密。

光に溶ける君の髪とか、陶器のように滑らかな白い肌とか、揺れる白い光の粒を映す、ひっそりとした湖のような瞳とか。君の記憶は、綺麗な宝石箱に鍵をかけてしまっておくよ。


フレデリック。誰よりも綺麗だよ。


そんな台詞を君に言う資格のあるものが居るのなら、それは僕を置いていないだろう。